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わたしも観ました!

隠れキリシタンの歴史を知らない私でも理解しやすい工夫がされていました

古巣馨司祭が監督、脚本で製作された「そしてサンタ・マリアがいた-キリシタン復活物語-(英語字幕版)」DVDを鑑賞しました。古巣馨司祭が、NHK Eテレの「こころの時代/長崎の祈り―水がめを運ぶ人々に導かれて(2019年9月放送)」の番組にご出演されて以来、関心のある方でしたので、この度の作品の鑑賞を楽しみにしておりました。

今回のDVDに録画された舞台では、キリスト教禁制から過酷な弾圧の時代を経て信徒発見に至る時代背景が幕間毎にナレーションされ、隠れキリシタンの歴史を知らない私でも理解しやすい工夫がされていました。
役者の全員が潜伏キリシタンの子孫の方々ということですが、多くの練習を重ねた努力が実り、観客に感銘を与える作品が完成されたのだと感じました。天に召されている彼らのご先祖の方々の応援もあったと思います。

役者のセリフは長崎弁でリアリティがあります。私は福岡出身ですので理解できましたが、他の地域の方は方言の理解が難しいかもしれません。今回は英語字幕版DVDですが、それがかえって良い結果となったと思います。英語字幕は中学生でも分かる英語レベルで翻訳されていましたので、理解できない長崎弁を英語で理解できることと、私は英語でどのようにキリスト教専門用語を表現するのだろうと関心を持って字幕を見ていましたので、英語力向上にも役立ちました。良い作品ですので、日本在住の外国人信者や海外の方も鑑賞できる英語版製作は、正解だと思います。

この物語を通して、当時の隠れキリシタンの信仰心の強さに感銘しました。また、イエス・キリストの再臨と神の国の完成までどのような過酷な状況でも、後の世代にその信仰を引き継いでいくことができることを私たちに教え、確信させてくれました。
プティジャン神父のセリフで、「一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます」(ヨハネの福音書12:24)と言われていたのが印象的でした。その実りが現在の私たちキリスト信者に引き継がれていると感じました。聖母マリアのご加護とイエス・キリストの愛はいつでも私たちに与えられていることの喜びが、どんな苦難、困難をも乗り越える勇気を持たせてくださいます。

私は、演劇などをライブで鑑賞にすることが好きですので、生の上演であればもっと違う次元の感動があったと思います。
このような作品のDVDの製作は有り難いです。最後となりますが、すべての製作に関わられた方々に感謝申し上げます。

(カトリック碑文谷教会 パウロ T.M. 様)

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これからの日本のキリスト教会の歩みにも一つの指針を示す

1587年の伴天連追放令、1613年の徳川禁教令ののち、過酷な殉教の歴史を重ね、1637年島原の乱が鎮圧され、日本全土からキリスト教は抹殺されてゆく暗黒時代を迎える。
こうした中で、250年間7世代にわたり潜伏を続けていた浦上のキリシタンの子孫が、1865年大浦天主堂のプティジャン神父のもとに現れ信仰告白をする。キリスト教の歴史上類を見ない信徒発見である。
7世代にわたり「ローマからパパ様が司祭を送ってくださる」という言葉を信じる力は、どのようにもたらされ、信仰を守り続け、子、孫に伝えていったのだろうか?
このDVD『SANTA MARIA WAS THERE!』はまさにこの疑問に答える作品となった。

長崎教区の古巣馨神父様のご指導の下、教区の多くの司祭および信徒の協力により、浦上の信徒たちの歴史が5幕10場の長時間にわたり繰り広げられる。奇跡ともいわれる歴史的事実は、これからの日本のキリスト教会の歩みにも一つの指針を示す。
この舞台を通して、素朴な信徒一人一人が司祭もいない、教会もない中で、敬愛する父祖から伝えられた信仰を守り、自分の子や孫に確実に伝えてゆくことにより守り抜いた熱意の賜物は、神さまのはかり知れない御業となって250年を経て私たちにも伝えられてきた。

この感動的な歴史の再現ともいうべきドラマの最終場面での、ゆりの台詞『私の胸(こころ)あなたの胸と同じ』という言葉に、当時のプティジャン神父は感動の涙を禁じえなかったという。舞台でもその感動はよく伝わっていた。
この信徒発見から数年後、日本は明治に入っていたにもかかわらず、浦上の信徒に更に追い打ちをかけるような迫害があった。『旅』と名付けられた、村民3,000人がキリシタンということで、日本各地に流配され、多くの命が奪われた。そして100年もしないうちに、浦上は原爆投下の犠牲になる。

今回の上演は、浦上に留まることはなく、私たちひとりひとりを激しく揺さぶるものとなった。

(カトリック高輪教会 内藤瑞枝 様)

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日本語がわからない信徒にも、日本のキリシタンの軌跡と奇跡を伝えていきたい

禁教時代に潜伏しながら教えを守った信徒がいたこと、そして命を賭しても信仰を貫いた信徒がいたことは、日本のカトリック信者ならば心に留めおいてほしい歴史です。残念ながら私の周りでは、禁教時代の受難、そして「信徒(再)発見」の奇跡さえ知らない信徒が大半です。それは、私自身が長崎の出身であるために感じるジレンマなのかもしれませんが、残念に感じることも多々あります。
私自身は潜伏キリシタンの子孫ではありませんが、その雰囲気がいまだに色濃く残る土地で「彼ら」と交わりながら、信仰生活を営む機会があったことは宝だと思っており、彼らの先祖が守り抜いた信仰が忘れ去られることがないよう願っている一人です。その意味でも、この舞台を英訳付きのDVDにしていただいたことは、心強い宣教の味方です。

信徒が演じる浦上の潜伏信者の心の葛藤はリアリティにあふれ、お互いが疑心暗鬼になりながらも、語り継がれてきた「その時」のために、命がけでパードレとサンタ・マリアに会いにいく過程が丁寧に描かれ、心に響きました。長崎の信徒間では、この出来事を「パードレ再発見」として、逆の立場から語られることもあります。その瞬間の迫真の演技は、おそらく演者の皆さんが、語り継がれてきた先祖たちの思いを重ねたものにちがいありません。
自分たちが信仰の自由を謳歌できている陰では、祖父母、そして7代前の先祖たちが耐え抜いた苦しみの時代があったことを、彼らは強く感じながら演じていたはずです。個人的には、ナレーターの女性の言葉一つ一つが、とても心に滲みました。古巣神父様の思い、製作に携わった信徒の皆様の思い、そしてその先祖の思いが、考えぬかれた単語や表現で大切に語られ、言霊のように感じられました。

今は信仰の形態も変化し、信徒のありかたも変わってしまいました。信仰が物理的な欲に取って代わられ、もはや信徒でさえも祈りの中の安らぎよりも、富や権力、スマホの画面に安らぎを求める時代となっているようにも感じます。宗教にも時代に沿った変化は必要ではありますが、日本のカトリックは裾野は広がれど、根が深く育っているとは言い難いようにも見受けられます。
このDVDを観て、受難の時代に心と体の痛みを担いながら一生を信仰にささげた先人の思いが礎であることを、いつまでも忘れず、感謝と祈りをささげたいと改めて感じました。そして、微力でも、私自身がその思いをこの作品から「受け取り」語り継ぐ道具となれればと願ってやみません。

ふるさとの教会には外国人が多数在籍しており、英語のミサもたてられています。宣教司牧活動も活発なため、ぜひこの機会にDVDを活用し、日本語がわからない信徒にも、日本のキリシタンの軌跡と奇跡を伝えていきたいと思っております。

(カトリック碑文谷教会 マリア・グラティア C.M. 様)

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「信仰の恵みの偉大さ」「信仰の喜び」に、あらためて目覚めさせて戴けたように思った

私たちは、今回のフランシスコ教皇様のご来訪を、とても憬れて待っていたこととも重なって、この信徒発見から百五十年を経た今、当時の信徒達の「かくれ」の生き方、ひたすら隠れて信仰を守り抜くことに徹して生きる、そのことに慣れてはいても、積極的に自分の信仰を表して証しとし、たとえ迫害される身になったとしても、真実を見究めるために、出て行こうとする勇気を、同じ信仰共同体としての互いの祈りと愛の結束力によって勝ち取った浦上の十五人の信徒達、大浦天主堂にプチジャン神父のもとを訪れたこの人々の物語を観て、深い感動を覚えた。
「信仰の恵みの偉大さ」「信仰の喜び」に、あらためて目覚めさせて戴けたように思った。

最後のサンタ・マリア像に出会うことができた信徒達の喜び・感動のシーンを見て思ったことは、主がかつて「私は、世の終わりまで、あなた方と共にいる。」と言われたように、私たちが心から信じ求めているなら、主が必ず「聖母マリアを伴って、私たちと共に、いつもおられるのだ」と思うことができた。

舞台での演技も、ナレーターの朗読も、出演者に信徒が多いためか、また、この物語の事実を生きた人々の血統(ちすじ)を引く方々が出演されているためか、観る人々の心に響き、沁みる出来栄えであったと思う。
DVD作品で見て取れた、舞台の装置は、ごく簡素で、必要最小の物だけが置かれていたことも、自然で、かえって効果的だったと感じている。

尚、脚本の製作・監督などの大変なご労作を、祈りとともにして下さった古巣薫神父様はじめ、多くの出演者の方々、目立たぬ隠れた多くの作業を担って下さった方々に心から感謝するとともに、私どものように遠隔の地でもDVDを入手することは、それほど困難ではないと思うので、 一人でも多くの人々が鑑賞し、心に恵みを、そして信仰の喜びを戴いてほしいと願っている。

(殉教者聖ゲオルギオのフランシスコ修道会・札幌マリア院 Sr.二瓶規子 様)

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信徒たちの苦悩が、よく表れていると感じました

『そしてサンタ・マリアがいた』のDVDは、大勢のシスターたちと共に見せていただきました。
大変感動いたしました。
七代も経って、信仰を語り継ぐべき主要人物がだんだんいなくなり、自分たちの信仰を守り続けることについて非常に不安に陥っている信徒たちの苦悩が、よく表れていると感じました。「七代待てば……」という預言を信頼して、何とか七代まで保ち続けてきた信仰が、今後一体どうなるのかという不安、恐れ、心配。それが互いに対する不信にまで陥りそうになる仲間たち。大浦にできた教会に希望を抱く人、恐れる人、その間の葛藤が非常によく描かれています。

実際に信徒たちの間には、このような葛藤があったのだと思います。その中でも、やはり女性の強さを感じます。このような女性たちがいなかったら、この信徒発見のドラマは生まれなかったかもしれない、と思います。あるいは、もっと後になったかもしれません。死をも覚悟で確かめようとする、あの熱意、希望。女性特有の直感で確信していたのかもしれません。

方言が時々わかり難いものでしたが、英語の字幕を同時に見ていて理解ができました。
役者さんたちは素人の信徒さんたちの劇団なのでしようか? それにしては、とても好演でした。また、BGMのラテン語聖歌がとてもきれいでした。
舞台装置が非常にシンプルで、場面転換が素早く簡単にできてよかったです。観る方の感情が途切れないので、とてもいいと思います。
ナレーターの役割も、上手に使われていると思いました。

このような作品をお作りになった神父様に、心からお礼を申し上げます。DVDにしてくださったお陰で、北海道の私たちも見ることができて、感謝で一杯です。また、英語訳がついているので、広く海外でも観られることを期待いたします。
神父様のこれからのお働きの上に、神様の豊かな祝福をお祈り申し上げて、お礼と感想とさせていただきます。

(殉教者聖ゲオルギオのフランシスコ修道会・札幌マリア院 Sr.永田淑子 様)

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あきらめることなく願えば必ず主は応えてくださる

どんな困難な状況にあっても心をひとつにして祈り、あきらめることなく願えば必ず主は応えてくださる――このDVDを観て感じた想いです。

数年前、長崎に仕事で訪れたおり、早朝に大浦教会でのミサに与るため、ホテルからあの急坂を上っていきました。行き交う人もなく静かな深い闇に包まれたような景色の中、足下だけを見ながら上りきると大浦天主堂が目に飛び込んできました。紺碧の空に包まれて白く荘厳な佇まいの聖堂を見上げ、畏敬の念を覚えずにいられませんでした。
先人たちがどのような思いを抱きながらあの坂を上り聖堂へと足を踏み入れたのか――この舞台に登場する人々に寄り添って見てみると、どれほどの希望とともに恐怖を感じながら決断したのかが想像できます。

いかに困難な状況の下にあっても彼らの神への絶対的信頼を目の当たりにすると、果たして自分の信仰はここまで強いものだろうかと考えさせられました。
長崎のみならず日本各地でのキリスト教弾圧、殉教の話は書籍や映画、殉教地を訪れた際に石碑などに刻まれた史実を目にし、理解したと思い込んでいました。今思うと、それは歴史の中の出来事として自分にとってはどこか遠いことだったのかもしれません。

この日本で信仰を守り抜いた人々が確かにいた。彼らは信仰の灯火を決して消すことのないように、次の世代へと「ことば」と「ことばにできない模範」を通して伝え、私たちへと繋げてくれたのだと改めて感じさせられました。
そして、やはり女性は強い。プチジャン神父に向かい「サンタ・マリアのご像はどこ?」と尋ねたのも女性でした。守るべき存在(子孫)を持った女性は特に強いと感じます。

今、世界中で見えない敵(新型コロナウイルス)と多くの方が闘っています。「我らの胸、あなたと同じ」-同じ信仰を持った人だけでなく、皆がそれぞれの置かれた場所でそれぞれの方法でこの試練の時を耐え、互いに手を携えて一日も早い終息を祈っていると思います。
人間の弱さ・愚かさを知り、神が呼びかけておられる声にいかに耳を傾けることができるかを知り、一番必要なものは何なのかに気づくことができたならば――この長崎の人々のように願いが聞き届けられるのではないでしょうか。

(カトリック碑文谷教会 モニカ K.T. 様)

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