信徒発見と教会の復活-「東洋の奇跡」の歴史-
上智大学文学部史学科教授 川村信三
1.「東洋の奇跡」
・1868年1月8日、教皇ピウス9世は長崎で宣教活動に従事していたパリ外国宣教会のベルナール・プチジャン神父 (Bernard Petitjean) に特別書簡を送った。
「東洋の奇跡」(A Miracle of Orient) と教皇自らが驚嘆の声をあげた出来事を祝福。
17世紀キリシタン時代の共同体が司祭不在250年以上。
・「潜伏キリシタン」たちは、発見されたばかりでなく「ローマ・カトリック教会」に回帰。
・それは、「発見」と「復活」の二重の意味での「奇跡」。
2.近代国家日本と宣教師
・19世紀後半、日本は欧米先進国にならい、近代国家として生まれ変わる道を模索した。
・1854年、アメリカ合衆国と江戸幕府の間で取り交わされた日米和親条約 (Convention of Kanagawa) を機に、ついにその「閉鎖」的な政策を放棄し「開国」にふみきった。
・明治新政府は一般国民に対するキリスト教の禁教政策は続行。
・主要港の欧米人居留地(長崎、横浜、函館など)内限定で「信仰の自由」と教会建設の開始された。
3.ピウス9世の開国日本への期待:26聖人の列聖
・1862年、教皇ピウス9世による26聖人列聖。
・こうして、日本のカトリック宣教再開の機運を高めようとの努力。
4.「信徒発見」の衝撃⇒「東洋の奇跡」と命名
・1865年3月17日、「潜伏キリシタン信徒発見」全世界のカトリックにとっての衝撃的事件。
・それが先の「東洋の奇跡」である。
・長崎浦上の「潜伏キリシタン」の末裔が集団(約15名)の大浦天主堂来訪。プチジャン神父との邂逅。
・「私たちはあなたと同じ信仰をもつものです」「サンタ・マリア様の御像はどこですか?」。
・彼らの発する言葉にプチジャン神父の心は感動で震えた。
・「潜伏キリシタン信徒」(長崎周辺、近郊の村々、そして五島地域)は1万人超。
・400年前の先祖と同じ信仰と確認した上で、ピンポイントでカトリック教会に復帰。
5.「東洋の奇跡」についての「問い」
(1)250年の迫害と禁教を耐え忍び、そして、信仰を守り続け、ついに、再びカトリック教会に合流した日本の信徒たちの存在とその発見の「奇跡」を可能としたものは何だったのか。
(2)その「潜伏」共同体の存続はいかにして可能だったのか。
(3)なぜ、人びとは「カトリックの信仰」を捨て去らなかったのか。
(4)それを具体的に保持させたものは何だったのか。
6.「東洋の奇跡」を可能とした三つの要素(キーワード)
①「信徒組織」(コンフラリヤ Confraria, Confraternity) 組織的に「信仰」保持。
②「バスチャンの予言」(Catechist Bastian’s Profecies)。
迫害期の殉教者「バスチャン」(伝道師カテキスタ)の「教会も未来の復活予言」
「潜伏キリシタン信徒」たちに「希望」をいだかせ伝承されてきた。「未来へのメッセージ」。
③「こんちりさんのりやく」(A Book of Contrition and Prayer) という小冊子の「祈り」(Oratio)。
先祖たちののこした「記憶」を「愛」をもってはぐくむ原動力となったものである。
結論的にこの三つの要素はキリシタン時代の「秘跡の記憶」(Memory of Sacraments) に由来するものとして示される。
川村信三(かわむら・しんぞう)
上智大学文学部史学科教授。ジョージタウン大学で博士号取得。日本とヨーロッパの文化交流の歴史、キリシタンの歴史、ヨーロッパのキリスト教の歴史などについて研究している。